酒蔵の歴史

北武蔵深谷の風土

位置

蔵窓から眺める赤城山と深谷ねぎ畑
蔵窓から眺める赤城山と深谷ねぎ畑

埼玉県の西北部、関東平野のおおよそ中心に位置しています。周りを見渡せば東から筑波山、北は日光男体山・赤城山、谷川連峰、榛名・妙義・浅間山の連峰、西南には甲武信ヶ岳、雲取山などの秩父の連山がつながります。蔵の北部には坂東太郎の名で親しまれた利根川がとうとうと流れてます。また、市の中心部の東西を中仙道が横切り宿場町を形成し繁栄を極めました。深谷の地形は、荒川のかもし出した扇状地と利根川の氾濫により作られた平野部に大きく二分されます。丸山酒造の酒蔵は利根川の沿岸に位置し緑豊かな屋敷林、そして豊富で良質な地下水と深谷ねぎに代表された一大野菜産地に囲まれています。

風土

深谷の地は近代日本経済の礎を築いた渋沢栄一の生誕の地です(写真は、丸山酒造の近隣に佇む旧渋沢邸「中の家(なかんち)」)。古くは養蚕・藍玉の生産が盛んでその経済を支えたのが大河川である利根川でした。河岸場は物資の集散地となりました。利根川水運の大型船(高瀬舟)の最終上流地点(中瀬河岸)が蔵の近くです。また、中山道の宿場町として人の往来も盛んで、それに伴い様々な文化がおおいに賑わった地域と言えます。

蔵の歴史・丸山酒造以前

丸山酒造および丸山酒店
丸山酒造および丸山酒店

北武蔵きっての大豪農、荻野七郎兵衛が江戸時代初期に酒蔵を開始したのが始まりです。その後、近江商人の日野屋与吉が蔵を借りて明治12年まで営業していました。

丸山酒造の沿革

越後の国、中頚城(なかくびき)郡柿崎村生まれの初代和吉(わきち)が江戸晩期、親戚である上州の酒蔵の奉公にあがり才能を発揮し18歳で番頭に昇格しました。26歳になった明治6年正月功績を認められ群馬県赤岩村に嶋崎屋を独立創業しました。当時は本店の酒を主体に味噌醤油の他よろず商いで生計をたてておりました。 明治9年現在の埼玉県熊谷市下奈良にて酒蔵を借り受け酒造業を始め、7年間営業をしました。酒名の由来は大相撲の金星にちなみ造り酒屋として大成するように金大星と命名しました。 明治16年 当時埼玉縣榛澤(はんざわ)郡横瀬村 荻野七郎兵衛の酒蔵を借り受けスタートいたし、その後荻野家より酒蔵を買い取り新築・修築をして現在にいたっています。また明治政府以降の日本の近代化に役割を果たしたことで平成6年、酒蔵全体(万延元年1860年築造など)が埼玉県の近代化遺産となりました。